お釈迦様とヒバリクラブ

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お釈迦様とヒバリクラブ

ある読者の方から「ヒバリクラブの事はお釈迦様も教えている」という事で、お釈迦様のお話になった事を記録しているものをご紹介頂きました。

大変に心強く思いました。

恨みを抱いている人々の間にあって恨むこと無く、我らは大いに楽しく生きよう。
恨みをもっている人々の間にあって恨むこと無く、我らは暮らしていこう。
悩める人々の間にあって悩み無く、大いに楽しく生きよう。
悩める人々の間にあって、悩み無く暮らそう。
貪っている人々の間にあって患い無く、大いに楽しく生きよう。
貪っている人々の間にあって、貪らないで暮らそう。
我らは一物をも所有していない。大いに楽しく生きていこう。

こういうものでしたね。

ヒバリの事はイエス・キリスト様のお話の中から、私がふいに思い出してこのヒバリクラブというものを作って、私も兎角今まで恨みを抱いている人、悩める人、貪っている人の中にいて、自分はそういう人達を直そうというか、それほどは偉くないんでありますが、何かそういう感じがあって、例えば国会は問題であるとか、何が問題であるとかそういう事を言ってたわけですが、ふいに「それはちょっと間違ってるんじゃないか、我々は何を悩んでるんだろうか。」世に飛んでいる空に飛んでいるヒバリは次の瞬間に鷹に捕らえられるかもしれないのに、良いと。

それで、この絵をですね、太陽にヒバリが振り返っているところなんですけど、絵をシンボルに使ったんですが、実は日本の宗教というのは”自分を作ったものを神として敬う”という事なんですね。

ですから、自然と祖先ですね。

自然はもちろん太陽もそうです。太陽がなければ我々はもう死んでしまいますね、寒くて。

「お天道様の下で嘘はつきません」これはそれですね。

もちろん、山・川・海・動物、そういう中で自分が生きてるわけですね。

人間はお米を頂き、お味噌汁を頂き、たまには魚とか肉を、他の動物を殺めて食べていかないと生きていけない。自然の中に生きてる。

それから、私の父母は2人で祖父母は4人で祖父母の両親は8人でその上は16で、2のn乗で私の祖先がおられるわけですが、ある時に、随分昔なんですけど、とある県の人達が全部兄弟になるのにどのくらいの時間がかかるのかなと思ったら、わずか600年だったんですね。

それで私はその時に、そうかと。

私達は2人の両親から生まれてきてると思うんですけども、2人の両親の遺伝子は4人のお爺さんお婆さんから頂いており、4人のお爺さんお婆さんの遺伝子は8人のその上の曾祖父というんですかね、それを頂いてきている。

そうすると、わずか600年。まあ人間が誕生してもう600万年も経ってるんですけど、1/10000の時間、600年で日本のある県に住んでいる人が全部実は兄弟だ。

つまり、遺伝子が600年前のご先祖様の遺伝子が、ほぼ均等に次々と子孫に受け継がれていくんですけども、そうすると我々の県にいる人のお互いの遺伝子は兄弟並みに同じもので出来ているという事ですね。

もちろん、自分の父親母親に顔が似てたりするんですが、足は2本あるし爪も生えてるし、と、全てのそういうものは兄弟と同じようになってる。

なるほどなぁ、と思ったわけですね。

まあ日本人がイエス・キリスト様だとかお釈迦様だとかそういう細かい事を言わずに、常にご先祖様と自然、つまり、自分とか近所にいる人を作った、それはやっぱり感謝すべきでしょうね、そういう事がなければ元々この世に生を持たないわけですから。

だから日本人はおおらかですよね。

キリストの前で結婚式で愛を誓い、正月になると初詣をして、それでも心の底から家族の健康とか、そういうものを祈りますよね。

それからお坊さんに会ったら、そのお話を聞き、祖先の魂に手を合わせるという事も心の底からしますね。

まあ他の国の悪口を言う必要ないんですが、全然。この恨みを抱いている人々の間にあって恨むこと無いわけですが、宗教戦争なんかも非常に多いですしね、宗教のトラブルが多いんですよ。

日本にもそういう人いるんですね。靖国神社に祀られている英霊というのは、我々の祖先であって、日本だけが有色人種で独立してずっときて、その礎を自分の命を捨てて守ってきた人ですからね。

信教の自由なんていうのは、全然靖国神社なんかには関係ないですよね。

日本の神というのは、キリスト教とか仏教とかそういうものじゃないんですよ。多神教でもないんですね。

自分を作ったものを全て敬うという心なんですね。

その中でもちろん、今の日本を命を捨てて守ってくれた人なんていうのは、それはもっと凄いですからね。

だからやはり、靖国神社に行かないで日本人というわけにはいかないかなと思うんですね。

恨みを抱いている人々が周りにいるんですけど、それでも恨むことなく大いに楽しく生きるという事ができるという事ですね。

恨みを持ってる人々の間にあっても、我々は暮らしていけるって事なんですね。

悩める人々もいっぱいいる、しかし悩みは無くなるんですよね。

僕の言い方をいえば「昨日は晴れ、今日も朝」なんですよね。

昨日嫌なことがある、忘れてしまえば昨日までの事の悩みは全部無くなる。

今日も朝は来てるから夕方が来るかなんて心配せずに大いに楽しく生きよう。

悩める人々に会っても悩みなく暮らすことができる。

それからまあ貪ってる人々はいますよね。今のテレビ局なんかそうですけど(笑)

お金は結構あるのに、日本人を脅かしてもっと収入を得ようとしてる。

だけど、それでもそんなに心配せずに大いに楽しく生きる事はできる。

貪ってる人々の間にあっても、貪らずに暮らし生きる事ができるんですね。

これは長い文章の一部を切り取ってるんですが「我らは一物も所有していない。」これが重要なんですね。

私達が持っている物っていうのは、実はないんですよね。

まあ食事はしていかなきゃいけない、ある程度の着物も着ないと外にも出られないので、そういう物は必要ではあるんですけど、それは言えば幻みたいなものなんですよね。

何をいっぱい持ってても実は一物も所有していない状態ではあるんですよ。

それが、物が自分にくっついてる、物が自分の人生に影響を及ぼすと思うと、その物を介在して恨みがあり悩みがあり貪りも生じるんですね。

だから、これが非常に難しいんですけれども、適切な物は確かに持ってなきゃいけない。

鍋も釜もなければいけない。女性であれば口紅も必要だ。

しかし、それはある意味で所有してないようなものなんですね。

自分が生きていく上で必要な物である、というぐらいの事ですね。

自分が生きていく上で必要な物って、歯ブラシもそうなんですね。歯ブラシもなければ虫歯になってしまいますから歯ブラシも必要なんですが。

所有してるかっていうと、所有はしてないんですね。

私達が所有しているものは、愛情とか人に対する感謝の心とか恩とか礼儀とか誠とか、そういうものは所有しているんですけども、それはいずれも物ではないんですね。

心の中にあるものなんですね。

そういうものだけがあれば、大いに楽しく生きていく事ができる。

自分が物を所有しているという考えができると、突如恨みも抱き、悩み、そして貪りたくなるという事なんですね。

いや、まあもちろん、さすがお釈迦様であって、私達がいつも迷う大脳皮質を取り外して人間本来の幸せというものを考えれば、恨みを抱いている人々の間にあって恨むこと無く、悩める人々の間にあって悩みは無く、貪っている人々の間にあって患い無く、そして一物も所有していない、大いに楽しく生きていこう。という事になりますね。

「コロナに罹るんじゃないか」いやいや、もし運命が罹る運命であれば、まあ特に65歳以下の人はそれが重症化する可能性なんてないんですからね。

65歳以上の人はあるいは重症化して命を落とすかもしれないけれども、私が計算してみると(まあそんなに計算するとお釈迦様に怒られるかもしれませんが)、自然死よりか、自分が自然に死ぬ時よりか遅く死ぬんですからね、コロナに罹ると。

何の心配もないんですね。

そして、0歳代、10歳代の子供達はほとんど罹らない、もちろん全く死なない。

そんなに素晴らしい事はありません。

このコロナに悩んでいる人がいるっていう事ですからね。

本当に変なものだと思います。

この文章を送って頂いた人に深く感謝して、今日のブログを終わりたいと思います。

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